2009/08/29

弱い者の味方


(つぶやきなので漠然とした言い方をして申し訳ないのだけれど)

これまで認めていない者たちに対して、とりあえず敵と認識する?
認めたくない意見を言うものに対して、敵と認識する?
それが現代風の若さとでも言うのか・・・なんかさびしいね

そんな矛盾に満ちた心情とか風潮、出来ることなら認めたくはないなあ。
いや、是非を問うような次元ではないので、見守るしかないのだが。
現代のヒーロー像とか、子供達の共感するところって、そんな部分が多いのかな。

だって、ほら、ビートルズがデビューした頃のことを思い出してごらん。
はじめのうちは、どんなセンセーショナルなビジュアルもムーブメントも、必ず批評の対象にされ、いっとき、否定的な意見が必ず起こった。

そしてやがて肯定するものが大勢を占めると、それはしぼんで行った。
それが昇華という現象なのかどうか、博学でないからよくわからないのだけれど、その頃の風潮は、否定派も、かなりの支持者を得ていたり、実力もあり、社会的に優位だった。そして、その議論の前後でも、常に相互にその存在を認めあっていたんだ。

現代でもそのシステムは生きている筈と信じたいのだが、おかしなことに、どうもこう・・・
何て言うか、ほんの少し形が変わってきているような気がするんだが、それについてはまたいつか。



(ささ、それはさておいて)

これもまた、若干漠然とした言い方をして解り難くて申し訳ないのだけれど、

今君達の目の前にあるこの「人」という存在は、それぞれ、ほぼ例外なく、画面の向こうでは、比較的強い。

世間体的には人は傷つきやすくもろいと言われるかもしれないが、実際はそんなことはない。強い。
私も強いし、たぶん君も強い。
でもそうなるのは、法によって、常にそのように守られているからだ。

それと比較して、人前に立つ(つまり我々がそのような存在として認識することもできる)ミクさん達は、実際は人ではないので、いくら法による守護が十分だったとしても、人にかかる法は適用されない。だから弱い。
私よりも弱いし、存在としては、たぶん君よりずっと弱い。
そしてたぶん、比較しちゃいけないくらい弱い。

エンドユーザーライセンスには、諸処に、その「存在」が持つべき権利について書かれているように見えなくもないが、それは錯覚であり、ユーザーに課せられた守るべきことが明記されているに過ぎない。

だが、そこに記されている言葉の裏には、その規約をユーザー各人が守ることにより、彼らのような「弱い存在」を支える、あるいは最低でも見守ってゆく義務が課せられていると読めなくもない。

要するに、元をたどればそれは開発者の、創作者としての創造した結果に対する「愛」であり(この辺はプログラムも、他のコンテンツにも共通していることなんじゃないかな)、きっかけがなんであれ(ユーザーの自覚の有無にかかわらず)それに少しでも共感、共鳴したから、だから、今の私があって、今、君がいて、そして、ミクさん達の存在を見つめること、見守り支えること、そして向き合うことが出来るのではないだろうか。

と、今回の事件経過を眺めていてふと思った。

(これは思い込みの内訳であるから、決定的なものではない。事情が変わればころころ替わるにちがいない。けれども・・・)

ところで、「正義のヒーロー」ってキャッチは、どこかおかしい(今Google検索して40万もヒットしたけど)
縮め過ぎて単体では日本語として成立していない気がする。

私なら、たとえばこうする⇒「正義の味方、僕らのヒーロー」これくらいが丁度いいような気がする。

そして私は、この「正義の味方」にはなれない。
だってたいへんそうだから(経費も体力も気力も相当消費しそうで)。

けれど、せめて「弱い者の味方」にはなれる(つまりそのように思いを馳せることが出来る)みたいだし、契約したからにはそうして行きたいと思う。

そこで今回のこの記事のタイトル・・・

そう、古いアニメに詳しいならピンと来る人もいるかもしれない。

ラ・セーヌの星の最後の方で、シモーヌ(主人公)が、子供たちを救出しようとチャンチャンばらばらする場面で、革命を果たそうとする者たちが「正義の味方じゃなかったのか?」と言うのに対し、おそらくは主人公が深い葛藤と自問自答の末に見出した結論として、この台詞がある。

「私は弱い者の味方です!」

そんなカッコよさ、ヒーロー像だって、あってもいいよね。


後記:著作権とか人格権とかについてずばり書くことは難しいし、できないし、あえてそれを避けたのでこんな言い方になる。だから要するに、実は正義なんてチャンチャラおかしいと、本音を言えばそんなところなんだけれど、こちらの求めている「基本的なポイント」についてピアプロ開発者ブログにコメントしたところ、キチンとお返しくださったのは少なくとも私にとっては成果だったので良かったし、それよりもなによりも、これからも誰もかも創作を続けれるのだから、こんなに嬉しいことはない。
(前記事よりもずっと内容が飛躍しているのでトラバなんてできたもんじゃありません)

追記:前記事で「秘密です」と書いた、どこを覗きに行ったのかについては、このまま封じてしまうとアンフェアな感じがするので、ここに記しておくよ。

それは、邦楽のダウンロードランキングでした。
チェック対象だったある楽曲のランクは当時3位でした。
現在既にデータベースから除外されているようです。

2009/08/25

それらのどこをとって市場なのか

いまさら感が満載ですがご勘弁。
また、関連のリンクを張ることもこの際自粛します。
興味ある方は検索エンジンをぶん回してころがして各人で調べてください。

・・
あることで、Yamahaホームページを除きに行きました。
すると「Music Market」サービス終了のおしらせの記事(8月3日付)が目に飛び込んできたのです。

うーん・・・

「Music Market」は、ご自分のオリジナル楽曲作品を有料配信できるサービスです。

一部引用
■有料配信楽曲登録の受付終了日
2009年8月31日(月)
■「Music Market」サービス終了日
2009年9月30日(水)

ショボンときたのはその理由が、「市場ニーズの変化に伴い」だったことによるんですが、いたしかたありませんね。

幾つもの細分化した事業群によって構成されるような大企業の経営は、常に収益性を尺度にして整理して行くものです。大手電気(電機?)メーカしかり、自動車メーカーしかり、その他いろいろしかりです。
(アニュアルレポートなどでどの事業が損失を被ったか見てみるといいよ)

で、サービス終了の詳しいこと(つまり、終了するに至っての、まことに残念ですがとか言う見解や、ご挨拶的なこと)は、また時期を見てあらためて公表されるものですよ。

ですから、今私は、「市場のニーズってどんなん?」と言った素朴な疑問から、色々調べてみたいという欲求がふつふつと湧いてくるのですが、それはもう少し後にしておいてもいいかな。

だって、今からだと「市場」の主が何になるのかあまりにも漠然としていて、焦点を定めにくいんだものね。

・・
それともうひとつ。そもそも除きに行ったのは、著作権についての勉強と、それにまつわる状況調べのためでした。
(どこの何をチェックしに行ったかは秘密です)

著作権についての勉強といえば、私の場合、北方ジャーナル事件の判例が、ひとつのバイブルみたいなものになっていて、とてもよく整理されたものだと思います。全文を読もうとするといつも頭痛くなるんですが(特に大橋進裁判官の補足意見の比較衡量のところ)、判例は判例なので(つまり、現在発生している諸問題に関しては、ただ過去の判例をなぞるだけでは根本的な解決に向かわないということに薄薄気付いているので、)もう一つか二つ乃至はそれ以上ステップアップした発想が必要なわけですが・・・
(賢明な人はとっくにそうしている筈、と思いたい。)

そろそろこれ読んでいやになった人もいるかな?ってか、うちはその道へ向かうことはないのだけれど、司法ってのもすばらしい世界ですね。なにげにでもなく英知に富んでいるし、法と言う途方もない大きな次元の船をかじとりするんですからね。

・・
私はもともと理系なので、整理に時間がかかるため、いちはやく思ったことを記述するときは、半分以上勘でやってます。

友人に「・・・それ飛躍しすぎ」とか、ずっと前から言われていたりする。

書きかけかもしれないけれど、この記事はこれでおしまい。

追記:2点書きだし視点がズレズレなので、トラバできないんだよなあ・・・

また追記:
サービス終了で思い出した。わりと著名なゲームコンテンツを多数提供しているハンゲームで知られる NHN Japan Corporation が運営している、ブログを中心としたSNSサービス「CURURU」も終了するんだった。
こちらの終了日は、2009年11月30日(月)

2009/08/11

太陽の種子たち

ててっててっ手直し版

音声ビットレート128、深さ16ビット、フレーム24枚/秒

前記事の曲のタイトルの副題「太陽の種子たち」について。

マイケルさんに続いて、川村さんも遠い世界へ行ってしまいました。

この曲を作ったきっかけの主なものの一つは、そんな音楽と自分自身とのつながりを絶とうとする「運命」という「あと付けのレッテル」みたいなものへの反抗(詳細略)です。

副題に選んだのは、歌詞に「太陽」をいくつか置いたのと、今の子供たちが大人になって「何々は卒業した」とか言う台詞をいつか聞くはめになるといやだなあとか(中略)思ったからです。

なので、この「種子たち」は、たぶん君らの事を言う。君らとは・・・

ふっ

そこまで詳しく説明するつもりはないし、義理もない。

ってか、そこもやはり、享受する人それぞれで、いろいろ悩んだり考えたり、思いついたり気づいたりして、そんななかいろいろな人生に、音楽を通して、「時(とき)」を共有できればいいかな。

ところで・・・

運命ってどんな味がするの?

同期(しんくろ)と時間経過

漫画やアニメの演出技法について詳しいことはぜんぜん知らないけれども、映画で「時間経過を崩す」という極めて高等な演出を用いたのは1作だけ観た事がある。

それは「旅芸人の記録」という4時間以上の長い尺で、映画館の上映では途中10分間の休憩があった。
けどさすがにいいかげんお尻が痛くなったのを今でも覚えている。

その映画の内容は、旅芸人一家が戦前戦中戦後を過ごした人生像を団長(主人公)の追憶のようにまとめあげたものだが、最後まで観ないと、その人の人生の重さ、生き抜くことの信念や、感情・・・なにより、監督が何を伝えたい(もしくは監督の心情に100歩譲って「伝えた」)かが伝わらない。

一方、伝えることの楽しさを手っ取り早く共有しようという試みも、レンタルビデオが普及しだした頃からあったようだが、それは普通の娯楽作品やエンタメで起こったらしい。

たとえば・・・、エンドロールが終わった後に「この話はハッピーエンドなんだよ!」みたいなカットや、シーンが付け足されて、ほほえましいことこの上ないものもあれば(たとえばアリオンとか、最初観たときゃ「尾も白い?」とかメッセージ込められているみたいに思えてげらげら笑っちゃって面白かったなあ)、いかにもな2作目につながるショートエピソード(露骨できわめつけなのがパロディーとしての予告編をつけた(ホット何とか・・・題名忘れた、本編自体がトップガンのパロディー))なんてーのもある。

しかしどんな作品だって、作り手の意思がある限り、最後まで見ないと、聴かないと、読まないと、伝わらないし、作り手は、伝わるような努力をする。

マクロス7の主人公(バサラだったっけ?)が叫ぶ「俺の歌を聴けエー!」とかの主張は、今風の萌えっこに置き換えれば「どうか最後まで聴いてよね、お、ね、が、いv」(「v」はハートをあらわす)ってなもんだろうし、それくらいキャプションに書いたってぜんぜんOKじゃないか、週間漫画にしてみればそれは扉絵なんだ、あの手この手で視聴者が食いつくように、そしてなにより、享受する側を楽しませなきゃ、こちらも楽しくない。

なので、今回UPには(相変わらず中身が薄いけどね)「地球を押し花にする?」というほら話をチョコッとトッピングしたつもり。

冒頭の「フィルムが古い」効果をつけたのは、実は偶然見つけたWMVの効果だった。ピアプロでの曲説明に書いた「現在が過去で本当の現在は未来にある(ちょっとややこしい)かもしれない仮説」は、動画製作の過程において生まれたといっていい。(作詞したときにはぜんぜんそんなこと思いつかなかった。)以降、発想の連鎖がもし続いていくとすれば・・・「こんなに嬉しいことはないw」(by沖田艦長・・・ってか、語尾にそれつけますか!)

かくして、ちょっと見ただけではわからない奥の深さを味わってもらうべく、相変わらず解りにくい前置きを長々と書いたのでした。



ニコニコ動画自体「ネタ」に敏感なユーザー気質を計算に入れれば、もっと練り上げたものができるかもですが、もともと「いい歌」を作ることがポリシーの主体なので・・・

ってか、基本的に、ニコニコはアップロードするものもダウンロードするものも一緒になって楽しむものなので、これくらいがいいと思う。きっかけは、小さなココロの窓をたたいて、開いたらしめたもの・・・みたいな。


メモ:音声ビットレート128、FLSからのmp3出力時にディザリングを選択したのが原因かと思われる、FLV変換とエンコード後に音量が小さい(ゲインが95にもなっていたのに!)
にわか知識でいじるとこうなるといったいい例ですね。以降は素直にディザなし深さ16ビットにしておこうかな。